竜子山城祉

所在地 高萩市下手綱2番地の外1(旧子字名、雉ノ尾、松岡小学校の西(裏)竜子山)
時代、形態 中世、(鎌倉、室町時代)の階段的連郭式山城(根小屋方式)
築城年代 室町時代 応永年間(1394〜1428)のころ、はっきりした年月不明

 竜子山城が何年に築かれたかは不明である。古文書等により、竜子山城主としてはっきりとしているのは、室町時代の応永年間(1394〜1428)、高萩地方の地頭職にあった大塚氏が竜子山に築城したといわれている。

 では、大塚氏以前ばどうなっていたかは、神社や寺の縁起に表れて来るが、いずれも確証はない。平安から鎌倉時代に武士団が形成されてくると、高萩地方にも城館などを造って、勢力の拡大闘争が繰り広げられるようになる。大塚氏以前の城館跡には、「館(タテ)の坊古館跡」(小島団地東側の丘、手綱太郎の館といわれている)。「リュウガイ古屋敷」(小島団地の南はしにあったが団地造成で現在はない、要害(砦)跡)。「塙古館跡」(現在の高萩小学校敷地内にあったが現在はない)。「西ダレ屋敷跡」(上手綱西垂(堀の内))応永年間、長宏寺を開基した平但馬四郎氏之の館)「島名城跡(小屋古館跡)」(平安時代959年多気兵部丞実基が築く)といわれているが、これらは、いずれも断定する証拠には乏しいといわれている。

 文治元年(1185)源頼朝は、建久3年(1192)には、鎌倉に幕府を開いた。地方の有力な武士団の中から国に守護、地方役人に地頭が任命された。高萩地方の地頭は、安良川村の宇佐美氏が務めていた。

 大塚氏は、現在の北茨城市大塚を本拠地としていた。元弘3年(1333)(鎌倉幕府滅亡の年)、新田義貞が鎌倉攻めをした時、その一員に、大塚五郎次郎員成の名があることから、小武士団を形成していたと思われる。そして、興国元年(1340)には、多珂郡大塚郷下方(現在の北茨城市大塚)地頭として大塚五郎次郎員成の名前がしるされている。(員成は、南北時代南朝側につき、佐竹氏は足利尊氏の北朝側につく)

 やがて、室町時代になり、当時、高萩地方は、寺岡氏、里見氏が地頭についていたが、上杉禅秀の争乱に乗じて、大塚氏が高萩地方に侵入して領有することとなり、竜子山に山城を構えてこの地方を治めることになった。室町時代の応永27年(1420)大塚信濃守が初代竜子山城主となり、2代大塚頼成、3代大塚成貞のときの文明17年(1485)、福島の岩城常隆は南進策を図り、軍城(北茨城市)を落とし、松岡地方の竜子山城を攻略しようと進出してきた。大塚成貞は、岩城軍勢に勝ち目はないと悟り、城を出て、岩城軍の支配下になる。以後、大塚氏の竜子山城領地(高荻地方)は、岩城氏の支配下のもとに政治が行われて行く。4代目大塚隆成、5代目大塚常成、6代目大塚政成とつづき、7代目大塚親成の時、天正19年(1519)、豊臣秀吉は朝鮮出兵を命じ、常陸の大名の佐竹氏からの命令により、親成も軍勢を率いて出陣した。8代目大塚隆道の時、慶長元年(1596)に、岩城領内の折木城(福島県広野町)へ知行替えとなり高萩地方から去る。大塚氏は、初代から8代にわたる、175年間、竜子山城主としてこの地方を治めた。

 大塚氏が去った後の竜子山城領内は、岩城氏の支配下にあったが、4年後の慶長5年(1600)天下分け目の関ケ原の戦いにより、家康軍に味方しなかった、常陸の佐竹氏は秋田へ移封、岩城氏の領地は没収となった。そして、江戸時代の慶長7年(1602)に、家康に味方した戸沢政盛が竜子山城主として任命されて、秋田の角館から所替えとなる。(松岡3万3千石、領地は南は日立成沢から北は勿来の関まで)

 戸沢政盛は、竜子山城の改修工事をして、竜子山城を松岡城と改称する。松岡城主として20年間統治したが、元和8年(1622)に、出羽国の最上、村山両郡6万石(現在の山形県新庄市)に所替えとなって移る。その後、戸沢氏の領地は、水戸藩の領地に組み込まれ、正保3年(1646)埼玉県飯能市中山出身の水戸藩附家老の中山信正が、松岡知行主となり、以後、明治になるまで、中山氏が14代にわたって、(松岡領主として129年間、常陸太田領主(六代〜九代)として96年間)日立以北の地域、太田地域を統治した。

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