丹生神社(三神社)と棒ささら

所在地 高萩市下手綱(松岡小学校の裏、松岡城跡地)
棒ささら 高萩市無形民俗文化財指定。平成5年1月12日

 丹生神社は、水戸藩附家老中山氏(松岡領主)の氏神様で、中山氏の遠い祖先が紀州丹生川流域の天野村に丹生都比女命(にうつひめのみこと)をまつったのが起源と言われ、その後中山家が武蔵国加治郡へ移封されたとき、紀州(和歌山)より現在の埼玉県飯能市の中山へ移し、氏神として丹生神社を建てた。(現在も飯能市に丹生明神社がある)

 正保3年(1646)に、埼玉県飯能市出身の中山氏2代目、水戸藩附家老中山信正(のぷまさ)が松岡領地を与えられ、氏神として松岡城内に丹生神社を建てた。6代中山信敏(のぷとし)の時、太田へ所替えとなり、神社も移されるが、10代中山信敬(のぷたか)の時、再び松岡の領主となり、文化2年(1805)8月、現在地に丹生神社を建て、丹生都比女命と天満宮、稲荷社を合わせて祠り、明治以降三神社とした。

 丹生神社の祭礼の日(4月16日)には、「棒ささら」といって、しし頭を棒の先につけて、四角に張った幕の中で、お囃子(笛、たいこ)に合わせて舞い踊るという民俗芸能が五穀豊饒を願って昔から行われていたが、大正時代の終わり頃以来演じられなくなってしまい約60年ほどが経過した。

 今は亡き高萩市本町の花園教之氏が常澄村の「大串の棒ささら」のことを聞き、大正15年4月に丹生神社の祭礼で、三頭のししが舞う棒ささらを見たことを思い出し、貴重な文化財だということで、昭和51年、丹生神社の氏子総代らと共に、神社内を調べたら、拝殿の下殿の奥から箱に入った「しし頭とささら一式」を発見した。

 その後、神社の氏子や地元の青年らが何とか「棒ささら」を復活しようと活動を始め、昭和56年10月に、市教育委員会、青年会議所、氏子総代、地元青年らで「複活検討会議」を開催し、地元に「ささら復活氏子会」が組織されて、復活に動き出した。

 発見した「しし頭」は、たてがみの羽根がネズミや虫に食われてぼろぼろの状態で、どうしてこの羽根(東天紅という鳥の雄の羽根)を手に入れるか苦労した。チャボを飼育して、その羽根で代用しようとしたがうまくいかず、たまたま、東京金町の羽毛店で1200本の大、中、小の羽根を手に入れることができた。そして、しし頭の修復を那珂湊の仏壇屋に依頼した。

 次に苦労したことは、お囃子(音曲)の復活であった。笛の曲は故岡本幸也氏の叔父である川原井文男氏(東茨城郡内原町在住)が青年時代に吹いた経験があると聞いて、訪問し、指導を受け、川原井氏が思い出して吹いてくれた笛のメロディーをテープに録音してもち帰り、これをもとに、地元の青年らが一生懸命笛の練習をした。

 このように、苦労してどうやら復活にこぎつけ、昭和57年10月17日に「復活奉納祭」が丹生神社の境内で、約2000人もの観客を前にして、盛大に行われた。

 丹生神社の「棒ささら」は、平成5年1月12日に市指定無形民俗文化財となった。現在は「丹生ささら保存会」の人々によって、正月元旦の朝と4月16日の祭礼にかかる週の日曜日に公開して演じられる。
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