高橋家の門・塀(へい)
(江戸時代の郡奉行の私邸)

所在地 高萩市下手綱619番地(松岡公民館北前)
市指定史跡 平成5年3月8日指定

 高橋家は、江戸時代、水戸藩政時代に郡奉行を務め、役所は附家老中山氏の松岡領(城)内に置かれていた。寛政8年(1631)の郡制度によれば藩内の北都を松岡に、中央は太田、南部に南、3郡奉行が置かれていたが、天保2年(1831)には、松岡、太田、武茂、南の4郡奉行が置かれていた。郡奉行は、地方の行政官で民政の責任者である。農民を農業に専念させ、年貢、諸税徴収、法度(きまり)、幕府や藩からの通達を守らせ、治安維持(警察業務)、治水、かんがい工事執行監督、凶作、ききんの救済対策、田畑の売買禁止、財政運用、農民の没落を防ぐ等当時の領民の生活全般にかかわる仕事をしていた。郡奉行の命令を末端の村々へ徹底させるため、各村には、組頭、百姓代という村方役人を置いて、村運営の責任者として、年責取りまとめ、届出、戸籍事務、村財政管理、諸書類作成、年中行事の運営等の仕事にあたらせた。

 松岡領知(城)の中山家家臣は、城近くの侍屋敷に往まわせ、百姓、町人の集落とは別であった。この高橋家が侍屋敷の最も東の端で、現在の松岡公民館の門前に仕切りの門があった。(門の土台石は松岡小学校校舎前花壇に残されている)門から東(高萩市街地方面)は下手綱村上町、中町、下町と農民、町人の家並みが続いていた。高橋家から西側関根橋までと関根橋から現松岡小学校の大手橋までと松岡中学校へ行く通りの両側は家臣の私邸屋敷があり、今でも、「殿町」という地名が残されている。平成8年に「松岡地区環境整備事業」により石だたみ道路となり、平成9年に「おやしき通り」とよぷようになった。また、「大工町」(現在の松ケ丘保育園あたり)という地名も残っていた。必要な職人は大切にされ、城下近くに住まわせた。(鍛冶町、鉄砲町など)、松岡の城下、家臣の屋敷が整備されたのは、松岡領主10代中山信敬の時で、高橋家もこのころ建てられたといわれている。高橋氏は、幕末の頃、多くの志士たちとの交流もあり、明治期には、東郷平八郎らと親交があった。高橋家に関する江戸時代から明治時代の史料(古文書)は、県歴史館に残されている。
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